ハロハロ!
前回灯火コンテンツとして、
「水の心得」という我流の思考術についてお話ししました!
また、日記でも『うたうとは小さないのちひろいあげ』という一冊の書籍を取り上げ、心の成長と言葉が密接に関係しているということについて述べました。
そこでのキーワードとして、「言霊の力」というのが出てきましたが、皆さんはこの言霊の力を信じますか?
人の心は言葉に非常に敏感で、喜びも怒りも、哀しみも楽しさも、心が生み出すすべての感情はこの「言葉」によって構成されています。
人は五感で受け取った情報に対して瞬間的にその対象の概要となる「イメージ」として感じ取ります。
この段階ではその情報はまだハッキリとしたものではなく、シルエットのような状態です。
脳に送られたそのイメージは言葉を介して何度も脳内で思考を繰り返すことによって「アイデア」に変換されます。
自分なりに考えや感情を言語に置き換えることでシルエットに「色」を付けてハッキリとした形にするんです。
そしてそのアイデアが言語化されて表出されることで、人は意思疎通や感性豊かな言葉選びを可能としているのです。
今回のテーマは、「文系思考と理系思考」です。
皆さんは自分の思ったことや感じたことを言葉などにして表現するのは得意ですか?
●文学の世界
僕は大学時代は英米文学を専攻していたので、心理学、哲学の知識に関してはほんの少しですが理解があります。
文学というのは書物を通して様々な学問や世界観を知ることができるのです。
一つの学問を学ぶことで多種多様な考え方に触れることができるってなんだか超お得な感じがしませんか?٩( ᐛ )و (笑)
また、文学は「心の中のモヤモヤとしたもの、言葉にし難い感情を言語化させることで具現化する、また感動などを誰にでもわかりやすく伝え、共有できるようにする学問」だとも思っています。
当時は「文学なんてなんの役に立たないだろうけど、面白そう」ぐらいの感覚で始めましたが、今は本当にこの経験を僕は誇りに思っています。
そして文学は何より、
言葉から筆者のメッセージ、登場人物の視点から見た世界観や感じたことなどを読み取る力を磨くことができるんです。
大学生時代にこの力を磨く訓練ができたのは、僕の人生の中で貴重な財産になっていると思っています。
元々僕は共感の力が強い上に、神経過敏な時期を過ごすことで、人の無意識的な表情の変化、目や身体の動き、言葉選びやそのトーンなどから、直感的になんとなくですが相手の心を読み取る力に長けている方だと思っています。
そして今後もその力をさらにドンドン磨き上げていきたいと僕は思っています。
もう磨きすぎてツルツルのピッカピカです。
●文系思考と理系思考
正直僕は理系の方のように合理的、数字的な根拠に固執するような考え方はあまり好きではないのです…
これは結構極端な考えのため、
「お前にそんなこと言われたくねぇ!」
と怒りを覚える方もいると思います。
ただこれはご理解いただきたいのですが、僕は決して「理系が下等、文系が上等」ということを言いたいわけではありません。
「文系が合理的でない、妄想ばかりを追いかけている」ということを言いたいわけでもありません。
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第二次世界大戦以降、日本は世界一の経済成長率を誇る先進国となりました。
(時事ネタは改めて記事にしていきます!)
これは日本人の合理的思考、しっかりとした根拠に基づき、一致団結して涙ぐましい努力を続け、結果を追求し続けてきたことによる成果だと思います。
そのため、
「利益を生む考え方が至高」という風潮が現在でも残っているのだと思います。
すごいですよね、理系って。
新しいものをアイデア次第で実際に創り出すことができるんですもん。
アイデアを実際の形にできる。
僕もそんな力が欲しかったよ…
理系に関する学問、
「医学」「工学」「商学」「理学」
などは特に利益、新たな製品を生み出す経済的な数字に直結するような力に最終的には結びつきます。
一方、文系に関する学問、
「文学」「哲学」「考古学」「心理学」
などは利益となる数字に直結するとは確かに言い難いのだと思います。
高校時代の文理選択で、既にこうした合理的な判断ができる学生は理系に進む人が多いような気がします。
つまり、極論「理系はお金を生む、文系はお金にならない」ということですね。
「お前も結局金の話か!」
怒りたいお気持ちはわかりますが抑えてください…
僕はアンチが苦手なんです…
不快な気持ちにさせてしまったのではあれば謝ります。
ただ、前回の記事にも記しましたが、
「社会はお金を中心に回っている」
「お金がないと人は生きられない」
ということを踏まえれば、これは紛れもない事実だということはご理解ください。
では、文系思考は役に立たない学問なのでしょうか。
僕は決してそのようなことは思いません。
そして言うなれば、
これからは「文系の時代」が来るとさえ僕は思っています。
これからは「文系の時代」が来るとさえ僕は思っています。
インターネットの普及、AI技術の発展により、やはり理系学問への注目は否めないというのは事実です。
しかし、それを使うのは誰ですか?
「人」ですよね。
ネットなどの技術発展に伴いその利用者はますます増え続けることになるでしょうが、研究者や開発者の立場でない限り、人は「消費者」という立場になります。
その恩恵に預かり、たしかに便利な時代にはなりましたが、人は「考える」という行為を放棄してしまってはいませんか?
情報過多の社会で、その詳細もわからぬまま情報に振り回されてはいませんか?
どれだけAI技術が発展しようとも、それを利用するのは「人」なんです。
AIに使われる時代になれば、人類の発展はそこで終わるでしょう。
だからこそ、人の内面、「モラル」「リテラシー」「心」「精神」「共感力」といった心の根幹となる力を確固たるものとし、「思考力」「発想力」「柔軟性」「コミュニケーション能力」のようなビジネス力が必要となる時代なんです。
これらが養えるのが哲学、文学などの
所謂「文系の学問」だと僕は考えています。
所謂「文系の学問」だと僕は考えています。
もちろん大学生になったら遊びたいですよね。
ぶっちゃけ文系の学部の方が時間に余裕があるだろうし、「文系のやつらめ…」ってメラメラと怒りの感情を抱く理系学部の学生さんもいるでしょう。(笑)
実際に文系の学生の方がその学問について学ぶ姿勢がまだまだ甘いと思います。
僕もアルバイトばかりしていた身なので、わからないわけではないのですが、大学を卒業したときに、
「結局あなたは何を学んできて、それをどう社会に貢献させるのですか」
って尋ねられたら文系の学生は困ってしまう人が多くありませんか?
社会人でも返答に困る人はいませんか?
そんなことだからいつまで経っても「理系至高な考え方」がこの世の中に蔓延り続けるんです。
「なんだこいつ偉そうに…!!!」
僕ってムカつきますよね、正直。(笑)
でも、正直に申し上げて今僕は文系の方々に対して、「煽っています」。
僕は文系思考は理系に負けないだけの力があると思っているんです。
先程、理系学問は「アイデアを形にできる」と述べました。
では、その利益を生むアイデアを創り出すのはどのような人ですか?
「凡人には持ちえない発想力」
「この世界の動向を見極める洞察力」
そして、
「だれにも負けない行動力」
ズバリこれらの力がある人間ですよね。
こうした人間がこれからの時代では生き抜くことができるのでしょう。
一方、その力がない者は生涯「消費者」の立場で終わってしまうのです。
本来であればこの力を磨ける学問が文系なのだと僕は思っているのですが、残念ながらそうではないとお考えの方も多いようです。
理系の方々の中にもこうした力に特化している人もたくさんいます。
むしろ今は理系の人の方がこの力に長けているようにも感じてしまいます。
だから、こうした力を持つ理系思考の人間が市場を大きく動かしているんです。
いつまで経っても「理系至高な考え方」が絶えないんです。
文系学問を学ぶうら若き青少年・乙女たちよ
君たちの力は誰かを幸せにしますか?
この社会をより良いものにしますか?
自らの目指す方向性と、実力を付けることに対する執着心を持つことについて、もう一度考え直してみてください。
見つめ直してみてください。
僕は文系思考の力を信じています。
●合理性と共感性
みなさんは「利き脳」という言葉を聞いたことがありますか?
手足や目と同じように、右脳と左脳にも利き脳というものがあるんです。
その利き脳によって、「合理的に考えるタイプ」か「直感的に共感・行動するタイプ」なのかが簡易的にですがわかるそうです。
こちらの実験は一時期テレビなどでも話題となりましたが、こちらの元記事で詳しく説明がされているので、一度みなさんにも試していただきたいです。
ちなみに僕は、
「うう脳タイプ」でした。٩( ᐛ )و (笑)
合理的な思考というのは経済的な損益や利己的なメリットとデメリットなどを重視する「現実主義」の考えです。
それを突き詰めていけば、たしかに社会的には成功者と言えるのかもしれません。
僕もこの合理的な思考というのは僕の人生に不可欠なものとしていつも心に留めています。
しかし、絶対的な現実主義というのは、果たして「人間的」な生き方と言えるのでしょうか?
そこには「共感」も「仁義」も「礼節」さえも欠落してしまってはいませんか?
メリットとならない「無駄なもの」を省いて残ったものが「合理性」だと僕は考えます。
いちいち人に共感などをしていると、自分の時間も失われますし、精神力も体力も消耗してしまうでしょう。
人は社会的な生き物。
だからたしかに社会にとってプラスとなる理系思考は大切な考え方です。
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お話を少し脱線させますが、
『これからの正義の話をしよう』
という社会現象を巻き起こした大ベストセラー本をご存知の方は多いでしょう。
(著者:マイケル・サンデル)
その中の有名なお話について、あなたはどうお考えになりますか?
『1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか。』
この問いに関してはベストな答えというものは存在しないのでしょう。
一人一人の答えがあって然りだと僕は思います。
ただ、このような「答えのない問い」を人生においては自らに問い続けないといけないのだと僕は思います。
合理的な思考、現実主義が果たして「正義」なのか。
ただ、合理的な考えのもと、「数字」として人を見るのであれば1人を犠牲にするでしょう。
俗に言う「多数決の原理」というやつです。
この考え方も理解はできます。
実際に僕がそのような状況に立たされれば咄嗟に同じような行動をとるのかもしれません。
しかし、僕はそんな数字のことなんかよりも、5人のために犠牲になる1人の人生を尊重したい。
その人が納得できる最期を迎えられるのなら、僕はその1人のために僕自身の人生をも賭けてその人の尊厳を守っていきたい。
僕は合理性よりも「共感性」の方をより大切にしていきたいと思っています。
●これからの時代の歩み方
これからの世の中は「文系脳」も「理系脳」もどちらも絶対に必要な時代になってきます。
少なくとも僕の身の周りにあるような、「文系無価値」の考え方は、AI発展に伴って、人の「人間味の消失」の未来に繋がっていくと考えています。
数字や機械に動かされる人間にはなるな。
この一言で僕のここまでの長々しい論説は結論付けられます。
もちろん「理系脳」「合理性」が悪ということが言いたいわけではありません。
ただ合理性だけで動くような人間に僕はなりたくないだけなんです。
もちろん誰かに共感したからといって何か利益を得られるのかと言われればそうではないのかもしれません。
しかし、『人生は死ぬまでの暇つぶし』
人と人との繋がりに喜びや楽しさを噛みしめながら、僕は生きていきたいのです。
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●参考リンク