どもども!
midori (@tm_midori) です! ٩( ᐛ )و
今日は感情の起伏を生み出す「心のベクトル」についてお話ししていきます!
ベクトルというと、僕は高校生の頃、数学の授業で習って頭がパッパラパーになっていたことを思い出されますが、「心のベクトル」は数学ほど複雑なものではありません。
ただの「矢印」です!(笑)
ビュー――――ン
僕は、「感情」というのは「心」からつくり出されるものだと考えています。
喜びも悲しみも、「感情」というものは目の前のことを脳内で理解できるように心が瞬間的に置き換えた「イメージ」だと僕は考えています。
その「イメージ」を言語化していくことで、
「楽しくなってきたぜぇえええ!」
とか
「最近疲れてきたわぁ…」
とか表現できるわけです。
(脳科学的には偏桃体という部位から脳へと発せられた電波信号なんだそうですが…)
辛い現実に直面したとき、心のベクトルがしっかり外向きの状態になっていれば、多少のことなら人は前向きに捉えたり、跳ね除けるだけの力を出せたりします。
ただ、そのベクトルがもし内向きの状態のときだったとしたら…
自分の心とちゃんと向き合い、自分の中の闇の部分と上手く付き合っていかなければ「精神の波」に飲まれてしまうことがあります。
僕は現在も精神科に毎月通っており、最近はだいぶ気持ちが回復してきたように感じていますが、今でも身の周りの出来事に心がかなり敏感に反応してしまいます。
今回は僕の体験談も混じえながら、精神の波に飲み込まれないために、自分の心とどう向き合っていくべきかについてお話ししていきます。
●midori*の体験記
まずご理解いただきたいのですが、ここからはなかなかにヘビーなお話になってしまうかもしれませんので、「気持ちを楽に」読んでくださいね!☆〜(ゝ。∂)笑
内容が重くとも、「midori*も大変なんだなぁ」ぐらいの心構えで読んでもらえるとこちらも助かります!(笑)
●
●
●
僕の経験談として、人は心が病んでしまうと、「視野がどんどん狭くなってしまう」ように感じています。
その視野というのは、実際に目で確認できる範囲のことも指しますが、思考の視野も同じく狭くなってしまうということです。
心にゆとりがないと、
「こうじゃなきゃダメだ!」
って、他の考え方を一切遮断してしまうような傾向になると思うんですよ。
人は必ず心の中にベクトルというものを持っていて、それがその人の本質的なもの、性格などを決めているんだと思います。
外向きのベクトルは外界へ、内向きのベクトルは自己へ向けられるものです。
本来であれば人は外向きに心のベクトルを向け、新しい出会いや発見を得るためにアンテナを張る生き物です。
時にその方向を内向きにして自己を見直す機会を作るというのは必要だと思いますが、人と関わり合いながら生きている以上、心のベクトルが外向きである時間の方が人生においては長いと思います。
さらに、そのベクトルをどれだけ外に向けられるか、内に向けられるかはその人の本質 (性格?) 的な部分に大きく左右されるのだと思います。
心のベクトルが外向きの状態が長ければ、人との繋がりに前向きになり、「外向的」「社交的」な性格となります。
逆に、心のベクトルが内向きの状態が長くなれば、自己を見つめ直す時間も比例して長くなり、「内向的」「思考的」な性格になります。
そのため、外向的が善、内向的が悪というお話ではありません。
僕がそう考えるその根拠は、三大心理学の一つである「ユングの心理学」によるものです。
(ユングの心理学についてはまた改めて別の記事にさせてもらいますね!)
しかし、体力的な問題や何でもない失敗の積み重ねなど、ふとした瞬間にそのベクトルが過剰に内向きに働いてしまうことがあります。
「怒られる…」
「失敗したら…」
「なんでこんなことを…」
「また…」
こうした思考はすべて自分の内面に向けられた圧力として働きます。
そして、その力はあるラインを超えてしまうと、自分の意識の及ぶ範疇から外れてしまい、自分では制御出来なくなってしまうのです。
「出来るだけ周りに迷惑をかけないようにしよう…」
「出来るだけ周りの人に関わらないようにしよう…」
「出来るだけ周りから自分の存在を認識されないように…」
このように、心のベクトルが過剰に内向きに働き過ぎると、自分という存在を次第に殺していくことになります。
「自分は存在していてはいけない人間なんだ…」
僕はこのような思考から、人との繋がりを感じることができなくなっていました。
身近な人の顔にも、声にも、景色にさえも意識を向けることが出来なくなりました。
常に手が震え、実際に視野も狭くなっているので、車の運転中も恐怖を感じていました。
そしてご飯が食べられなくなり、家事が一切出来なくなり、お風呂や洗顔などの支度でさえままならぬ状態になってしまいました。
頭の中はずっと霞がかかったように真っ白になり、言葉が上手く発せられなくなり、紙に話すことを書いて読み上げないと意思疎通が難しくなりました。
●
●
●
こうした内向きのベクトルは、本来であれば自分の生き方や自分が周りからどのように見られているのか見つめ直すために働くもの、自我の成長のために絶対に必要なものなのだと僕は思っています。
しかし、自己に向けられたそのベクトルは、時に刃のように鋭く心に傷をつけてしまうのです。
心の傷は目で確かめることができません。
周りの人からはもちろん、自分でさえその傷に気がつかないこともあります。
心の傷は癒えることはありません。
そして一度心が壊れてしまったら、心はもう元の形には戻らないのです。
今僕が一番怖いと感じているのは、「傷ついた心、壊れた心が自分でさえ完治しているのかがわからない」ということです。
いつまた精神の波に飲まれ、自分の中の闇が心の壁を突き破ってしまうかがわからないんです。
僕は精神の波に飲まれると、心の中で黒いものが激しく蠢いているのを感じます。
今にも心の壁を打ち破って、その「何か」が暴れ出しそうになって…
人間なので感情の起伏はもちろん誰しもがあるのでしょう。それが人間の自然の姿です。
ただ、今はほんとに些細なことにでさえ心が過剰に反応してしまい、その感情の起伏がただただ怖いのです。
しかも、何に対してそれほどまでに不安や怒り、悲しみを感じているのか、原因が自分でもわからず、自然現象のように心を蝕んでいるんです。
2020年、新年に入ってからほんとに嬉しいことも楽しいこともたくさんあって気持ちが上がることも多いのですが、実は気持ちが上がれば上がるほど、その後の落差が怖くて仕方がなく、実は怯えているんです…
心の病は周りの人からはわかりにくく、おそらく周りからは「midori*は元気になった!」と感じられているのかもしれませんが、自分ですら完治しているのかどうかすらもわからないのがこの心の病の一番恐ろしいところだと感じています。
周りからは理解されず、自分でさえ理解できない。
「もう何もかもどうでもいいや…」
「自分は何をやってるんだろう…」
「これ、何の意味があるんだろう…」
ときにはこういう気持ちになることは他の人でもあるのかと思うのですが、僕の今の精神状態だと、本当に自分の人生を放棄するどころか他のものまで破壊したい衝動に駆られてしまうんです…
実際に家族との関係も自分が壊してしまったようなものです。
ブログやコンテンツにさえ取り組むことができないときもありました…
だからせっかくぱにゃさんに頂いたこのチャンスを放棄してしまいそうでした…
壊してしまいそうでした…
こんな日々を僕は送っているのです。
●内向的な性格に秘められた力
こんなもどかしい世界だからこそ、自分の心、闇の部分と上手く付き合いながら生きていくしかないのだと僕は思っています。
自分の弱いところもすべて「僕の一部」だと認めてあげなければいけないんです。
先程、「内向的な心のベクトルは自己に向けられている」とお話ししました。
外向的な性格の方は、この社会では非常に有利な性格と言えるでしょう。おそらく内向的な方々にとってはうらやましい存在に感じることもあるかと思います。
なぜなら、外向的な人というのは良好な人間関係を築き上げるコツを無意識的に身につけているからです。
しかし、自分は内向的な性格だと感じているみなさん、落ち込まないでください。
内向的な性格には、外向的な性格に負けないぐらいとても強い武器がたくさんあります!
- 繊細な感受性がある
- 感受性が豊か故に想像力が高い
- 思考や想像を深掘りしていくことができる
- 一つのことに対する集中力が特化している
- 心のエネルギーを節約できる
内向的な性格の人は基本的に「芸術家」に向いていると僕は思っています。
芸術家といっても様々なものがあります。
音楽で表現する人。
絵で表現する人。
文章で表現する人。
色んな形で自分の心で感じたものを表出する力があるんです。そしてそれは誰かの心に響くような「感動」を生むんです。
内向的な人は、実際に人と話すことが苦手でも、頭の中ではとんでもない速さで思考を繰り広げることができ、さらに想像力や発想力に富んでいる人が多いため、独特な感性、独創性に優れていることが多いんです。
「自分はそんなことないよ…」
内向的な人であればきっとそう思うことでしょう。
ただ、自分の魅力って自分だけでは気づかないことがほとんどなんですよ♪
あとは自分の感じたものを外へ表現してみるだけです。
そんなに卑下することはありません。
あなたはあなたのままでいいんです。
●心理学的ペルソナの観点から
ここまで、「外向的な性格」と「内向的な性格」の特徴についてお話ししました。
外向的な性格の人は一見周りから見ると、悩みを持っていないように見えるかもしれません。
「お前はいいよなぁ」
って感じるお友達、あなたの周りにもいませんか?
でも、そうした人も心のどこかでは内向的な性格、考え方、感性などが乏しいことへの悩みを抱えていたり、人間関係に実は大量のエネルギーを消耗していて疲れていたりするのかもしれません。
人間関係上、内向的な性格の方が悩みを抱えているように見えるのは間違いないと思います。
人によってはそれを「暗い」「落ち込んでいる」と捉えられてしまい、内向的だとこの社会では敬遠されがちになってしまう雰囲気ってありますよね。
内向的な人にとって、それはとても息苦しい世の中だと思います。
そうした方々は、「あんな風に外向的になれたらいいなぁ」という憧れのようなものを感じることもあるでしょう。
でも、ここで少しそうした考え方を見つめ直してみてください。
●
●
●
先程、
「自分の弱い部分も自分の一部だと認めてあげなければならない」
「あなたはあなたのままでいい」
ということをお話ししました。
心理学上、人が外界と接する際の自分の心理のことを「ペルソナ (persona) 」と言います。
語源はまだ不明な部分が多いですが、ラテン語で「仮面、役柄、人物」というような意味です。
人は対人関係において、本当の自分や内面を隠すための仮面をつけて生きているんです。
自分の弱い部分、恥ずかしい部分、本音などをさらけ出すって怖いじゃないですか。
だから、仮面を付けて外向けの仮の姿を装うんです。
内面とこのペルソナが一致している人はもしかしたらありのままの自分をさらけ出すことができていて、本当に悩みは少ないのかもしれません。
ただ、内面とこのペルソナにズレが生じている場合、「本当の自分」と「外界の自分」との生き方が異なるため、苦しい思いをされている人も多いことでしょう。
よく、対人関係では明るく振る舞っていても、家に帰ると一切喋らなかったり、物思いにふけったりすることってありませんか?
私生活と、学校や職場とのギャップに疲れてしまってはいませんか?
それは前述の通り、「自己」と「ペルソナ」との間にズレが生じているということなんです。
だから僕が一番お伝えしたいのは、
『社会の中で、対人関係の中で人は生きている以上、そうした自分の中での心理的なズレがあるということを理解し、そしてそれを認める必要がある』
ということなんです。
まずは「内向的な自己」も「外向的なペルソナ」も両方受け止めてあげてほしいのです。
●
●
●
よく、「対人関係を円滑なものにするために、こうしたテクニックを身につけましょう!」というような記事を目にすることがあります。
内向的な人ほど、人との付き合い方で悩むものです。こうした謳い文句にすがりたい気持ちもよくわかりますよ。
でも、待ってください。
人生はそんな小手先のテクニックなどでどうにかなるようなものではありません。
そうしたテクニックを身につける前に、
「自分の中にもう一人の自分がいる」
「自分には人に打ち明けられない弱い部分がある」
ということを認めてほしいのです。
そうでなければ、外界とのギャップはさらに大きくなります。
自己とペルソナをできるだけ一致させる。
内面的な自己を「これも自分の生き方なんだ」と認め、ペルソナと同じく外界へさらけ出すことが出来れば、学校や職場、本来の自分とのギャップに疲れてしまうことはきっと減るのだと僕は考えています。
そしてそれができる環境を誰かが意識的に作っていかなければ、内向的な方々にとって苦しい世界に終わりはありません。
内向的な人は内向的のままでいい。
一人でいたいときは一人でいたらいい。
僕が最初の「起承転結ストーリー」でお話ししたこのことにはこのような考えがあるからなんです。
一度きりの人生、他人の目を気にして生きていたら、それだけで自分の人生は終わってしまいます。
自分だけの人生ですよ?
自分の生き方は自分自身で決められるんですよ?
周りの環境に合わせることもとても大切なことです。
自己を環境に適応させていく、変えていくことで長い目で見ればより良い人生になるかもしれないとも思っています。
自分を変えていかない限り、周りからは「暗い」もしくは「自己中」などと評価され、対人関係も上手くはいかないことでしょう。
しかし、この息苦しい世の中で自分の人生や生き方について、僕はあなたにもう一度考え直してほしいのです。
たった一度きりの人生。
「あなただけの生き方」を見つけてください。
僕はそんなあなたの手助けがしたい、
「あなたがあなたらしくいられる居場所」を創っていきたい、そう願っています。
「あなたがあなたらしくいられる居場所」を創っていきたい、そう願っています。