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⇧⇧今回は前回の記事の続きです。⇧⇧
前回の記事では、ホームズが如何にミステリー界を牽引してきた探偵であるかについてお話ししました。
この記事では伝説的な
名探偵「シャーロック・ホームズ」の推理の秘密
について少しばかり迫ってみたいと思います。
ホームズは自身独自の「推理学」を持ち、それを極めるあまり人間味を欠落してしまった探偵だとも言えます。
「恋愛感情とは単なる脳のエラーだ」
そんなことさえ相棒のワトソンに言ってしまうんですから。
友だちの中にこんなヤツがいたら、
「はあっ…!?」ってなりますよね。(笑)
他にも犯罪調査に関する知識については並々ならぬものがあるが、一方で地動説や太陽系のことについてはまったく知識も関心もないところを見ると、明らかに人間味の部分が欠如していることがうかがえ、ワトソンは彼のことを「推理マシン」と呼ぶこともあります。
一方でワトソンは友情であったり愛情であったり、ホームズとは対照的な存在として、お互いを補完し合っているコンビだとも捉えられるのです。
ただ、彼の推理力は本物です。
彼はすべてのものや事柄を「記号」として捉え、それに「原因と結果」の法則をあてはめることでその事象の原因を何でもかんでも暴いてしまうのです。
彼は、「ボール箱」という作品の中で、人の表情がその人の感情を示すものとし、人の目の動きでさえ彼にとっては意味のある記号なのだと話しています。
“Then I will tell you. After throwing down your paper, which was the action which drew my attention to you, you sat for half a minute with vacant expression. Then your eyes fixed themselves upon your newly-framed picture of General Gordon, and I saw by the alteration in your face that a train of thought had been started. But it did not lead very far. Your eyes flashed across to the unframed portrait of Henry Ward Beecher which stands upon the top of your books. You then glanced up at the wall, and of course your meaning was obvious. You were thinking that if the portrait were framed, it would just cover that bare space and correspond with Gordon’s picture over there.”
(それなら君に話してやろう。君は新聞を放り投げた後、それが僕の注意を引いたわけだが、君は三十秒ほどぼんやりと座っていたな。そして、君の目は新しく額に入れたチャールズ・ゴードン将軍の絵に止まっていた。僕は君の表情の変化から思考が流れ始めたと分かった。しかし、それほど長くは続かなかったな。君の目は君の本の上にあったまだ額に入れてないヘンリー・ウォード・ビーチャーの肖像に移った。そして君はあそこの壁を見上げたんだ。もちろんその目的ははっきりしているけどね。君はこう考えていたんだ。もしこの肖像を額に入れたら、あそこの空いたスペースに掛けて、向かいのゴードン将軍の絵と釣り合うだろう、と。)
(“The Cardboard Box,” p. 3)
彼はこのとき細部への観察によってワトソン医師から記号を集めているのです。
表情や視線というのはその者の思考と合致し、そして、彼のこの推理が成功するのは、彼が原因と結果の関係をあてはめているからです。
「思考が動いたから表情が変わった」と常識をあてはめて考えるのではなく、観察によって得た「表情の変化」や「視線の動き」という記号に注目し、「心に変化が生まれた」という結論まで演繹し、「どのように変化したのか」という仮説を作り上げて繋ぎ合わせているわけなのです。
ホームズはこのような推理を『緋色の研究』の中で、
「逆向きの推理 (“reasoning backwards”) 」と呼んでいます。
一方で、原因から結果を予想するものを「前向きの推理 (reason forwards) 」とし、日常生活では利用価値が高いと認めているものの、犯罪捜査において彼は採集した記号という結果 (手がかり) から原因を究明する方法を重宝しています。
彼のこの「逆向きの推理」というのは、
「演繹法 (えんえきほう) 」とも言えます。
簡単に例を挙げてご説明すると、
【演繹法】
「人には心臓があり、体内を血が巡っている」(記号・前提)
「だから人は哺乳類なのだろう」(予想・原因)
「そして哺乳類には心臓があり、体内を血が巡っているのだろう」(予想・原因)
このように、一つの記号から、より確実な前提を出すことによって、さらにその原因となる根拠を押し広めて推理するのです。
これの逆の推理法を「帰納法 (きのうほう) 」と言います。
【帰納法】
「人には心臓があり、体内に血が巡っている」(原因)
「人は哺乳類だ」(原因)
「哺乳理には心臓があって、体内に血が巡っているに違いない」(予想・仮説)
帰納法はできるだけ多くの記号を採集し、一つの仮説を立てる際に用います。
ホームズ曰く、「凡人はこの前向きの推理を好む」そうです。(笑)
このように、現在把握している前提となる「記号」から、複数の仮説を立て、その仮説を繋ぎ合わせて結論や物事の原因まで逆向きに推理することを「演繹法」というのです。
こうした人の心理にまで推理の鎖を伸ばしていく手法は、E.A. Poeの私立探偵オーギュスト・デュパンの推理を思わせます。
今回はこの演繹法という原因と結果に基づくホームズ独自の推理哲学、
「推理の科学」についてお話ししていきます。
●時代背景
18世紀中頃に起こった最初の産業革命を火種に、イギリスは19世紀には植民地獲得の手をインドやアフリカにまで伸ばし、世界最大の超大国に発展していきました。
この栄華を極めたヴィクトリア朝時代に21世紀現在まで語り継がれることとなる一人の英雄が誕生します。
それが諮問探偵シャーロック・ホームズ。
ベイカー・ストリートを拠点に名推理を繰り広げ、跋扈する犯罪を次々と明るみにし、ロンドンの町に平安をもたらす様はまさに英雄の名に相応しいのだと思います。
そうした姿に見惚れ、「シャーロキアン」なる彼の熱狂的なファンは世界中に今でも存在します。
その「聖典」とも言われるホームズシリーズの作者アーサー・コナン・ドイルはこれまで娯楽文学として日の目を見ることのなかった推理小説の黄金時代を築き、推理小説界の基盤を作り上げたのです。
しかし、この作品には当時の英国至上主義と栄華の陰りが表れているようなのです。
植民地であったインドでは異人種による狂気染みた殺人を生み (The Sign of Four, “The Speckled Band”) 、アメリカでは宗教団体「モルモン教徒」 (A Study in Scarlet) や白人至上主義者「クー・クラックス・クラン (KKK)」などによる犯罪 (“The Five Orange Pips”) が後を絶ちませんでした。
しかし、英国内でも階級による格差が生じているというのも問題です。
富裕層が町で謳歌する裏では、その恩恵に恵まれず虐げられた人々がまるで「汚水溜め (“that great cesspool”) 」のように華やかな町から暗闇の世界へと吐き出されているのです。
さらに殺人や強盗などは人々にとって身近なものであったため、当時のジャーナリズムはセンセーションを巻き起こす一大産業へと発展していくこととなりました。
そうした背景のもと、人々がシャーロック・ホームズに救いを求め、彼を英雄たらしめたのも頷けるのでしょう。
ですが、知力を持て余したそのような彼の前には犯罪をめぐって二つの生きる道があったはずなのです。
「正義への道」と「悪への道」。
彼は自らの知性と欲求を満たすため、まるで中毒のように犯罪を求めるアンバランスな英雄なのです。
彼は、誠実さや優しさ、思いやりなどの人間味ある相棒ワトソンと常に行動を共にすることで、ホームズの人間らしさが保管され、まっとうな道を進むことができたとも捉えられます。
また、悪の黒幕「ジェームズ・モリアーティ教授」の存在もまた、ホームズ自身が「正義の道」を歩むことができた根拠ともなりえます。
ホームズ自身が「犯罪中毒」とも言えるほど犯罪にのめり込み、人間味さえ損なわれ、危ない人間性であったことは否めません。
しかし、それは悪の化身が犯罪の裏で糸を引いていたことで、既に彼と対峙していたことになり、その結果、彼が「正義の立場」としてモリアーティ教授と対峙することができたとも言えます。
そして、「ライヘンバッハの滝」。
あの場所でホームズとモリアーティ教授の二人は、その後の消息を絶ちました。
二人は最後までこの「正義」と「悪」の立場として対峙し、ここでその二人の存在が絶たれることによって二人のその関係性は永遠に完結したことになります。
ホームズが犯罪中毒になりながらも、正義の立場としていられたのは、相棒ワトソンの存在と、対峙する者の存在が大きく関わっていたのです。
ホームズはその合理的な推理によって、この世界の「カオス」とも言える不条理や不合理を爽快なまでに明るみにしました。
当時のカオスに包まれた時代背景の中で、民衆が救いを求めていたことは間違いないでしょう。
そして、シャーロック・ホームズの誕生は、民衆の救いとなり、そしてそれが「ホームズ伝説」を生み出すことになったのです。
●優れた探偵に必要な技能
ホームズは第二作目『四つの署名』の中で理想的な探偵に必要な要素を3つ挙げています。
「観察」「知識」そして「推理」です。
●知識の力
これらの技能は全てホームズの得意とするところですが、ここではまず彼の犯罪捜査における膨大な知識から取り上げていきます。
彼の膨大な知識というのは非常に偏りがあり、誰もが知っているようなことに全くもって無知である一方で、特定のものに対しては超人的な力を見せます。
ワトソンは彼との出会い以降彼の才能に懐疑心を抱きつつも徐々に魅入っていき、彼の能力についてのリストを第一作目『緋色の研究』にて作成します。
彼はホームズが文学や哲学や天文学の知識は皆無であることに驚くが、一方では犯罪に関わる知識においては他の追随を許さないほどの深遠な知識を有するのです。
このような知識の偏りはいったいどこから生じるのでしょうか。
ホームズは土の識別や毒物についての知識などには非常に長けているのですが、一方で「太陽系」や「地動説」などの常識的な知識が欠落しているのです。
このような知識の不均衡はすべて彼の「犯罪学」への関心から生じているのです。
彼は知力が非常に高すぎるあまり、その力を持て余し、この世界の平凡さに退屈しているのです。
そのため、「犯罪捜査」という脳への刺激を求めるあまり、彼は「犯罪中毒」とも言える変人になってしまいました。
この犯罪学の知識というのは彼を特徴づける重要な要因の一つであり、その知識は彼の観察力の賜物なのです。
そして、彼のその膨大な知識量こそ彼が全知たる所以と言えるのです。
彼は常に犯罪という刺激を求め、いつも犯罪捜査の科学に没頭しています。
ぶっちゃけ、めちゃくちゃ変人です。
そうした中で彼は感情的な部分を削ぎ落としていくことで、「推理機械」と比喩されるような知識の偏向が生じているのです。
●「観察」の力
彼の知識は一つには「観察」という技能によって形作られています。
観察によって得られた情報というのは、彼にはある方向性を示す「記号」なのです。
彼はその膨大な知識だけでなく、その洞察力から人の内面にまで推理の鎖を伸ばすことが出来ます。
ホームズは観察によって得た記号から初対面のワトソン医師の経歴を言い当てたわけですが、彼は時として経歴だけでなく人の心理まで見透かすこともできます。
それが先ほどの「目の動き」のお話です。
宝石の窃盗事件を扱った「青い紅玉」の中で、彼が帽子という手がかりから微細な記号を読み取り、元の所有者の特徴を推理するという名場面があります。
“That the man was highly intellectual is of course obvious upon the face of it, and also that he was fairly well-to-do within the last three years, although he has now fallen upon evil days. He had foresight, but has now than formerly, pointing to a moral retrogression, which, when taken with the decline of his fortunes, seems to indicate some evil influence, probably drink, at work upon him. This may account also for the obvious fact that his wife has ceased to love him.”
(その男が高い知性を持っていることはもちろん一見して明らかだ。それにここ三年はかなり裕福だったはずだが、今はみすぼらしい日々を送っている。男には先見の明があった。が、今は以前ほどではないようだ。このことは心の衰えを示している。そして、それは金回りが悪くなったときだ。何か悪い影響を受けていたようだな。影響を与えたのは、おそらく酒か。これはもう一つ明らかな事実も物語っているな。男の妻はその男を愛するのを止めているんだ)
(“The Blue Carbuncle,” p. 5)
ワトソン医師はホームズのこの推理に対して「からかっているんだな、君は (“You are certainly joking, Holmes”) 」と答えていますが、ここで彼を一概に非難することは難しいのだと思います。
ここでもホームズは記号を読み取り、魔術のような推理を展開します。
彼の観察と推理によると、
「帽子の大きさ」から「脳の大きさ」を、
「流行遅れの高級帽子」から「所有者の財政」、
「帽子の紐」からは「所有者の先見の明」を結び付けているのです。
また、そのようなみすぼらしい帽子をして外出する夫に注意をしないことから、その男は妻から見放されているのだと言います。
ほかにも彼はフェルトの染みや帽子の裏地についた細かい髪の毛までも決して見逃してはいません。
「観察」については『緋色の研究』の中で彼が「第二の天性 (“second nature”) 」とワトソン医師に話すほど長けており、他の事件においても、足跡、袖口、筆跡、手の形など、彼は細部にまで観察することにいとまがありません。
なお、『四つの署名』では、ワトソンはそのような彼に対して次のように話しています。
“You have an extraordinary genius for minutiae.”
(君は細部にかけるおそろしい才能を持っているんだね)
(The Sign of Four, p. 8)
●推理の力
モリアーティ教授の数学的犯罪を生み出す力を「悪の知」とするならば、ホームズのモリアーティ教授に対する力は「善の知」とも言えます。
これまでにも述べたように、彼には犯罪に纏わる膨大な知識があり、それは緻密な観察によってなされているのです。
そして、その知識は『四つの署名』で次に彼が話しているように厳密科学によって定型付けられ、推理の判断材料となっているのです。
“Detection is, or ought to be, an exact science and should be treated in the same cold and unemotional manner.”
(犯罪捜査というのは、当然そうあるべきなのだが、厳密科学でなければならない。それと同じように冷淡で非感情的なやり方で扱われるべきなんだよ)
(The Sign of Four, p. 7)
特に彼の鮮やかな推理こそ彼の魔術の源なのです。
彼は自身の推理の手法を
「推理の科学 (“the science of deduction”) 」と呼んでいます。
そして、これこそが彼の「善の知」の要となっているのです。
彼は「生命の書」という題の記事をとある雑誌に投稿し、その中で彼の推理哲学の本質的な性格を述べています。
彼は書き出しを「一滴の滴から」という言葉で始めます。
“a logician could infer the possibility of an Atlantic or a Niagara without having seen or heard of one or the other. So all life is a great chain, the nature of which is known whenever we are shown a single link of it. Like all other arts, the Science of Deduction and Analysis is one which can only be acquired by long and patient study, nor is life long enough to allow any mortal to attain the highest possible perfection in it.”
(論理学者は実際には見聞きもせずに大西洋やナイアガラ瀑布の可能性を導き出せるだろう。同じようにあらゆる生命とは大いなる連鎖であり、我々はその断片さえ見せられれば本質がわかるものなのである。他のすべての学問にも共通しているように、「推理と分析の科学」というのは時間と根気のかかる研究によってのみ成されるものであって、いかなる人間であってもその最高と思しき極致に達するには人生は短過ぎるのである)
(A Study in Scarlet, p. 20)
ホームズが「一滴の滴」から「大西洋」や「ナイアガラ瀑布」にまで意識を広げられるのは、それを大いなる鎖の断片として捉えているからなのです。
彼にとっては一滴の滴でさえも意味を持っており、彼はある方向性を持ったそれらの記号を緻密な観察によって採集しているのです。
そして、原因と結果の因果律を適応し、数ある確固たる証拠とその原因とを鮮やかにも繋ぎ合わせていきます。
まさにこれは「因果律の鎖」。
そして、彼は全ての証拠が出揃わない限り結論を出しません。
“It is capital mistake to theorize before one has data. Insensibly one begins to twist facts to suit theories, instead of theories to suit facts.”
(データを集める前に理論立てるのは重大な過ちだよ。気付かぬうちに人は事実を適する理論に捻じ曲げようとする。理論を事実にあてはめるのではなくてね)
(“A Scandal in Bohemia”)
これは「ボヘミアの醜聞」の中の名言です。
この作品は、ホームズがアイリーン・アドラーという女性に対し、初めて人間味のある「恋愛感情に似た感情」を露わにする作品としても有名です。
このように、シャーロック・ホームズの推理というのは、「緻密な観察」などによって得られた「情報」「知識」を、因果律の鎖をあてはめていくことで、彼の推理に合理性が生まれ、科学にも似た力強さが引き立つのです。
●カオスの解明
18世紀のロンドン。
そこには人々を言葉では表しがたい不安や焦りが蔓延っていました。
人は自分の理解が及ばないものに対して、疑心や恐怖心を抱くのです。
そこでその「カオス」を合理的に解明する探偵が現れたらどうでしょうか。
人々は彼を「英雄」として崇め、後世へと語り継ぐでしょう。
人は納得さえできれば安心できるのです。
シャーロック・ホームズは人々の心に平穏をもたらす英雄とも言えます。
今回は僕が過去に研究したものの「ほんの一部」にしかすぎません。
文学とはそれほどまでに深淵な学問なのです。
自分の「知」となり、「教養」にもなる。
そして、これまで自分が見ていた世界が変わる学問です。
書物を通して様々な世界観、価値観に触れ、自身の価値観を磨くこともできます。
決してすぐに利益を生み出す学問ではないのかもしれませんが、少なくとも人生を少しばかり豊かにしてくれる学問だと僕は考えています。
僕も日々勉強を重ね、知識を蓄え、この世界の動向を見極める眼を養い、目の前の混沌に打ち勝つ人間になりたいものです。