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どもども!
midori* (@tm_midori) です! ٩( ᐛ )و
最近はまた感情の波に呑み込まれてしまい、暗闇の中で1週間ほどぐずぐずと燻っておりました。
スマホを手放し、外界からの一切の接点を切り離し、温泉施設へ行き、ただただ一人で好きな漫画を読みながら岩盤浴や温泉を楽しみ、眠たくなったらリクライニングシートで眠る。
そのようにして心の療養に努めておりました。
僕は温泉施設にこうしてよく一人で行くのですが、だいたい7~8時間ぐらい滞在してしまいます。(笑)
それでジュース代込みで2,000円ほどって、かなりコスパ良すぎません!?(グイッ)
そして帰宅後は自室に引きこもり、ぐだぐたボーッと天井を眺めていました。
こうして長い時間夢見心地でいると、自分が眠っているのか、目が覚めているのかわからなくなります。
今回はそんな心境にいた僕の、
「夢と現実の間のお話」をしていきたいと思います。
●胡蝶 (こちょう) の夢
あなたは「胡蝶の夢」という逸話をご存知でしょうか?
これは宋の時代、中国の思想家荘子が語ったとされる有名なお話です。
(画像引用:wikipedia)
❝ある日、私は夢の中で蝶となった。
私は喜々として蝶になりきっていたようで、自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っており、自分が人であることさえも忘れていた。
ふと目が覚めると、私はまぎれもなく私であり、決して蝶ではない。
私が夢の中で蝶となっていたのか。
蝶である私が夢の中で人となっているのか。
いずれが真実なのか私にはわからない。
私と蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。
しかしそこにははっきりとした境界線というものは無く、
その違いを証明することはできないのであろう。❞
人は誰しも夢と現実の狭間で生きているのだと僕は思っています。
おとぎ話のようなメルヘンな夢だとしても、学生時代の思い出の夢だとしても、この「胡蝶の夢」という考え方で見れば、すべてが自分自身の一部なんです。
その夢と現実の境目をいったい誰が証明できるというのでしょうか。
そんなことは誰であっても、不可能です。
であれば、今僕たちが生きているこの世界でさえも「夢の中の現実」だと言うこともできるでしょう。
なんだか頭がこんがらがってきたぞ…!?
たしかにややこしくなってきましたね。(笑)
少し休憩にしましょう♪
あなたは最近寝ているときに「夢」を見ますか?
僕は近頃急に意識が飛んで、コテンッと眠りに落ち、夢を見ることもなく、明け方目が覚めてから吹っ飛んでしまったスマホやメガネを探すというコミカルな日々を送っています。
「夢日記」というものが少し前にちょっとした話題になってましたよね?
枕元に書くものをあらかじめ置いておき、朝起きた瞬間に夢で見た内容を書き殴るというやつです。
箇条書きでも、イラストでもなんでも構いません。
あとで見返し、「あぁ、そんな夢も見たなぁ」と思い出せればいいんです。
そうすることで、夢の続きを見ることができるかもしれません。
それにもし夢の続きが見られたら、今度はその夢を自分でコントロールできるようになるかもしれません。
現実では起こりえないようなことであっても、夢の中であればなんだってできますよね♪
その夢が自分で少しでもコントロールすることができるようになれば、それはとても素敵なことではないでしょうか。
おそらく眠ることが毎日楽しみになると思います。
僕は翼を広げて大空を羽ばたき、世界中を旅してみたいなぁ…
●ユング心理学的「夢分析」
ユング心理学とは、スイスの心理学者カール・グスタフ・ユング (1875-1961) がフロイトやブロイラーといった先駆者たちに師事して生まれた心理学です。
フロイト心理学、ユング心理学、アドラー心理学。
これらを合わせて三大心理学と現代では呼ばれています。
精神科医でもあったユングは、自分の意識が及ぶ範囲と、それが及ばない無意識の範囲を定義し、さらに人類やその民族の大半が抱えている「集合的無意識」という先天的な心の作用を独自に明らかにしました。
ユング心理学では自身の心との向き合い方についてを考えます。
文学や教育学の世界では有名な話なのですが、「ゲド戦記」の原作はこのユング心理学的観点から文章を読み取れば、主人公ゲドの心の成長を描いた物語だと捉えることができます。
原作はジブリ映画の内容とは全くもって異なる内容です。
魔法やドラゴンなど、映画にはないものがたくさん出てきます。
このお話についてはまた改めて記事にしていければと思っています。
夢には「自分の無意識、理想への憧れ」が表れると、ユング心理学では考えます。
心の中に自分が無意識的に閉じ込めてきた、もう一人の自分が夢の中に現れるというのです。
それは現実では想像もできないような明るい性格の自分なのかもしれませんし、逆に残忍冷酷な自分なのかもしれません。
はたまた、自分はそのままに、記憶にないような辛い出来事に巻き込まれる、あるいは、文字通り夢のように嬉しい出来事に喜ぶという内容なのかもしれません。
どちらにせよ、深層心理のさらに奥底に閉じ込めていた想いや感情が「夢」という形でひょんなことから表出されることがあります。
アドラー心理学はこれまで綴ってきたように、
「どのように生きるべきか」に焦点を当てるものでした。
一方、ユング心理学は、「自分の心と向き合う、自分の心の正体を知る」というところに重きを置いています。
そのため、「夢」は自分の心について探る貴重な情報源になります。
フロイトの心理学から派生したこの心理学は、フロイトと同じように「夢分析」というものを行います。
夢の中に現れたものや起こった出来事を「記号」として、無意識の象徴として捉え、その「意味」の読み取りを行います。
…何言ってるかわかんねぇよ!
そうですよね。(笑)
では、具体例を出しましょう。
これはユング心理学研究の第一人者である河合隼雄氏の「ユング心理学入門」という書籍からの引用です。
❝大きい家、それはホテルのようであった。多くのひとがその中に住んでいた。一人の男が殺され、その殺人者がまただれかに殺され、これが数度続いた。私は自分の部屋から窓の外をみると、道のところまで川が溢れ家のまわりを流れていた。私は誰が最後の殺人者であるかを知っており、それをあたしの部屋にいた見知らぬ男に告げた。これを告げながら、卒然として悲しくなり、私は泣き叫びだす。そしてその男に、「私たちは何も知らなかったことにしよう」と申し入れる。すると、その男は、私が殺人者を責める気がないのなら、どうして殺人者が誰であるかを喋ってしまったのか、もういまさら知らないことにしようと言っても始まらない、という。私は殺人者が怖いのだといい、話し合いを続けているうちに、最後の殺人者は自分の刀で自殺してしまう。❞
(引用: 河合隼雄著, 『ユング心理学入門』, 2015年発行)
…なかなか壮絶な夢の内容ですよね。(笑)
この夢は28歳の独身女性の方のものだそうです。
しかし、このような内容でも、この女性が抱える悩みの根源、この方の深層心理を探る糸口が見つかります。
この女性は普段は感情をほとんど表に出さないような方だったそうです。
夢が悲惨なストーリーだったとしても、夢の中の女性は感情を包み隠さず露わにすることができています。
その感情は、「悲しみ」「苦しみ」。
連続して現れる刀を持った殺人者は、これまで女性が発しようとしていた感情を、無意識の内に殺してしまっている力の「危険性」や「強さ」を象徴している、と考えられます。
その感情の抑圧の中で女性は苦痛を感じ、その苦しみの正体も自身で理解することができなかったため、さらに憂鬱な時を過ごしていたといいます。
第三者がその夢を客観的に分析することにより、自身でさえ気が付いていない深層心理やトラウマなどが浮き彫りになってきます。
そこで今度は夢を見た本人の姿勢が大切になってきます。
自分が心の奥底に閉じ込めていた闇の部分。
忘れたくてずっと閉じ込めてきた悲しい過去。
誰にも見せられない自分の裏側にある感情。
こうしたものと自分が向き合う必要があるわけです。
目を背けるのではなく、逃げるわけでもなく、振り払うわけでもありません。
ただその自分の暗い闇の部分と向き合い、
「これも自分の姿なんだ」と受け入れるのです。
そうすることで自分の心の中で闇に隠れていた部分と、外界で光の当たっている自分の心は一つに統合され、また一段と強く、たくましくなることでしょう。
現実は理想とは程遠いものです。
人は理想と現実の中間に立っていて、そこで心の摩擦が生じるものなんです。
「どうしてこんな暮らしをしなくちゃいけないんだ!」
「ほんとなら私はもっとできるのに!」
こうした摩擦は人の心をどんどん蝕んでいきます。
心が擦り切れ、消耗していってしまうのです。
理想と現実、両方に真正面から向き合い、そこで折り合いをつけて生きていくしかないのだと思います。
理想には近づきたい。
でも、現実的にそれをすぐに達成することは出来ない。
そこで、できるだけ理想の自分に近づけるように意識的に行動し、常に己を磨き続けなければならないのです。
そして、目の前の現実にも真摯に向き合っていかなければなりません。
その中和点を自分の中ではっきりと見つけなければ、摩擦によって心は消耗していきます。
「理想の自分はこれ」「でも今の自分はこれ」
「理想の生活はこれ」「今の生活はこれ」
「その理想と現実との間で、今の自分は少しでも理想に近づくような行動、生活ができているか」
それを自らに問い続け、中和点を少しでも理想に近づけていくんです。
理想と現実の中和点がはっきりしていないと、いつまでも摩擦が生じてしまいます。
しかし僕は、これは「摩擦」ではなく、「葛藤」なのだと思っています。
苦しみながらも人は逆境に立ち向かい、常に前へ前へと歩み続けなければなりません。
間違っても理想と違った方向へは向かってはならないのです。
理想の自分がいる方向へと、一糸違えぬ方向へと足を踏み出し、そのまま歩き続けなければならないのです。
途中で「自分は今どこにいるのだ」と迷うこともあるでしょう。
「いったい自分は何をしているのだ」と後悔しそうにもなることでしょう。
でも、それでいいのだと思います。
それこそが「前進」なのだと僕は思うからです。
苦しいときは立ち止まり、束の間の安息があってもいいじゃないですか。
ときには立ち止まって呼吸を整える必要もあることでしょう。
そしてときには自分が進むべき方向を見失ってしまうこともあるでしょう。
しかし、前へ歩もうとする気持ちさえ常にあれば、それは「諦め」ではありません。
「挫折」でもありません。
「向上心がない者は馬鹿だ」
夏目漱石「心」の有名な一節です。
夢と現実の狭間の中に立ちながらも、自らが立っているその場を意識し、理解をすること。
そして、生きている以上、その理想へと近づく勇気ある一歩を踏み出し、前へ前へと常に動き続けるしかないということを片時も忘れてはいけないのだと僕は思います。
転がる石に苔むさず。
(“A rolling stone gathers no moss.”)
アメリカやイギリスでもよく知られている諺です。
アメリカ的な観点から見れば、「転がり続ければ苔なんて生えねぇんだよ!」ってことです。
人は夢と現実の狭間に立っているのだから、苦しいに決まっています。
諦めて現実だけを受け入れてしまえば、きっと楽になれるでしょう。
思考を止め、理想を求めるのを辞めてしまえば、きっと楽になれるでしょう。
しかし、そうした気持ちに囚われてしまうときには一度落ち着いて、立ち止まって考えてみてほしいと思うのです。
それは「人としての心」を捨ててしまうことと同じではないでしょうか。
「人であること」を捨ててしまうのと同じではないでしょうか。
僕自身も今その葛藤の中で苦しんでいるところです。
苦しんでいるのは自分だけではない。
己惚れるな。
自分の苦しみがこの世の苦しみだと思っている人ほど見るに堪えないものはないと僕は思っています。
僕はこの世知辛い世の中で確かに生きているのです。
いつまでも夢と現実の狭間でもがき苦しんでいるのです。
それでも、夢も理想も現実もその葛藤さえも、何もかも全てを受け入れ、光を放つ理想のある方向へと、一歩ずつ、少しずつでも前進していきたいと僕は思っています。
【参考リンク】
●幸せになる心理学: アドラー心理学