メンタルケア

ようこそ、混沌の世界へ

【6,155文字】

ども!

midori* (@tm_midori) です! ٩( ᐛ )و

 

2020年4月5日、東京では1日で143名の方がコロナウイルスに感染してしまったとのニュースがありました。

有名なプロ野球選手や芸能人の方も感染したとのことで、いよいよ大変な世の中になってきましたね…( ;∀;)

症状としては、味覚や嗅覚が感じなくなる、高熱が出たり、平熱に戻ったり、それが繰り返されて体力がかなり消耗されるとのこと…

特に高齢者の方に被害が出ているのは、体力的なことが原因なのかもしれません。

 

ネット上で広がるデマ情報

政府の対応への民衆の反応

そして己が正義と過信する人々

 

今回は僕の眼に映るこの惨状について少しばかりお話していきたいと思います。

 

●人は何に恐怖を感じるの?

 

僕は日々目に見えない「何か」に怯えながらひとりぼっちで生きているのです。

毎日仕事から帰り、マンションの階段を、照明が「チカッ…チカッ…」としている中、一段ずつゆっくり、ゆっくりと上がっていくのです。

ようやく自分の部屋のある階に辿り着いたと思い、ふと視線を動かすと、自分の部屋の扉の前だけいつも決まって照明が消えているのです。

 

怖いなぁ…

怖いなぁ…

 

そう思いながらも僕は少し急ぎ足で部屋の鍵を取り出し、部屋へと入ってみると、

リビングへとつながる扉の向こう側に、ガラス越しに黒い塊のようなものが見えます。

えいやっ!っと思い切って扉を開け、ふと視線を下の方へやると…

 

バ―――ン!!!

 

っとリビング一面に脱ぎ捨てられた服とゴミが広がっているのです。

 

怖いなぁ…

怖いなぁ…

 

…はい!

ここまでは僕の「本当にあった怖い話 (?) 」でした。(^^♪

怖かったですねぇ…

 

さて、ここからが本題ですが、(さっさと話せ!)

人はいったい何に対して「恐怖」を感じるのでしょうか。

 

自分よりも背丈が大きい人?

ケンカが強そうな柄の悪い人?

声が大きい人?

それとも、バンジージャンプで飛び降りる瞬間?

 

たしかにどれも怖いですよねぇ…。

特に僕は低身長なので、世の中のだいたいの人が僕より背丈が大きい恐ろしい世界です。(笑)

でも、これらってどれも「生命の危機」を人間の本能が感じ取って、

「逃げた方がいいぞぉ~?」

って、教えてくれているんですよね。

ということは、「肉体的な恐怖」ということです。

 

それならば、単純にそのような危険性のある場所を避けていれば恐怖は感じませんよね?

 

「スリルを味わうのがたまんねぇんだよ!」

 

ってアウトローな生き方をしている方もいるとは思いますが、

それは「恐怖」「楽しさ」を同時に感じているんです。

「生命の危機」を感じるということは、普段の日常では感じえない「非日常感」にワクワクしているということです。

普通に考えたら、ジェットコースターのように、高さ何十メートルから落下することなんて普段ありえませんしね。

ジェットコースターだから安心して恐怖を楽しむことができるのです。

しかし、たまにそのような命の保証のない恐怖を楽しむような人種がいます。

それが「本物のアウトロー」という人間です。

命のかけひきをたやすく行える人々です。

 

これはゲームやアニメの世界ではなく、現実でのお話なのです。

最近であれば京都アニメーションでの狂気染みた事件。

この加害者は楽しんでいたわけではないようですが、

その代わりに僕が感じ取った感情は、

「絶望」と「憎しみ」

事実無根の動機ですが、そうした感情が引き起こした悲惨極まりない事件としか筆舌に尽くしがたいです。

しかし、それだけでは失われてしまった命があまりに軽すぎる。

アウトローの世界とは、命の重さの概念すら存在しない世界なのかもしれません。

 

ここで少し脱線しますが、僕は最近思うことがあるのです。

 

「破壊衝動」をテーマにした芸術作品や情報が多すぎる。

 

この「破壊衝動」というのは人間だれしもが本能的に持っているものだと僕は思うのです。

「このおもちゃ、どこまで曲げたら壊れるかなぁ?」

というやつです。

好奇心に近いのかもしれません。

 

どこまですれば壊れるのだろう。

壊れてしまったらどうなるのだろう。

 

このような危険な本能は、本来社会的な生き物である人であれば「理性」で抑えることができます。

そもそも理性の力が強い人であれば、そう感じたことすらないかもしれません。

 

ただ、今のこの世の中にはこのような破壊衝動への欲求をくすぐるような作品文化がすぐに目に入るものとなってきました。

平たく身近なもので言えば、

「アニメ」「漫画」「ゲーム」「Youtube」などです。

僕はこれらも感性を表現する一種の「芸術作品」だと考えています。

 

芸術にしては軽すぎる、芸術をナメるな!

 

今回はそんなコメントで溢れかえるかもしれませんが、自分の感性を世に発信している時点で何もかもが同じ芸術だと僕は思うのです。

 

ただ、それに込められた想いや感性の重みが、

そのまま作品の「美しさ」となって人の目に映るのだと思うのです。

 

だからその作品の中には、確かに軽すぎるようなものもあります。

量産型の、中身の伴わない空っぽなものもあります。

僕はそうした作品を目にしただけで、僕の貴重な人生を無駄にしてしまったかのような気分になります。

それだけネット環境が発展し、誰もが芸術を世界に発信できる時代になったということです。

また、誰もがその芸術に触れることができるようになったとも言えます。

 

そして、誰もが破壊のテーマが盛り込まれた芸術に触れられるということは、年齢問わず、子どもであってもそれに触れる機会が容易にあるということです。

 

無残に人が殺されてしまう描写。

超悲劇ともいえる圧倒的絶望感。

 

たしかにこれは「非日常的」で、気軽にスリルを味わうことができるので、感性がくすぐられるのはわかります。

単純に、おもしろい。

そう僕も感じますよ。

ただ、その「気軽さ」「おもしろさ」と、「命」を結び付けてはいけないと僕は思うのです。

心がまだ育ち切っていない、精神的にも思考的にも不安定な子どもであれば尚のこと。

命の重さを測り違えてしまうことになります。

 

簡単に人の命ってなくなってしまうものだと思ってしまうではありませんか。

あっさりと命の灯火が、まるでバースデーケーキに刺さったろうそくの火のように吹き消されてしまうものなのだと思ってしまうではありませんか。

 

…その通りです。

僕はあえてそれは否定はしません。

 

僕は中学生の頃、小学校以来の友人と部活の先輩を亡くしました。

友人は「くも膜下出血」で、彼が体調悪そうに学校を早退した2日後頃に、担任の先生から「息を引きとった」と何の前触れもなく告げられました。

当時、僕はクラスの室長をしていたのですが、帰りのホームルームで「起立」と号令をかける際、声に冷静さを込めるのに必死でした。

そして、僕をそのクラスの室長に推薦したのも「彼」でした。

部活動の先輩は中学を卒業後、夏休みに川へ遊びに行った際、誤って川の深みへ足を踏み入れ溺れてしまい、そのまま息を吹き返すことはもう二度とありませんでした。

 

不思議と涙は出ませんでした。

「案外、自分ってあっさりしてるんだな。」

頭の中も意外と冷静に回転していました。

周りが泣いている中、僕はみんなとは少し離れたところに立っているのだとも思いました。

そのとき僕はどんな感情だったのでしょう。

 

悲しみ?

苦しみ?

寂しさ?

 

正直あまり覚えてはいません。

「無」に近いというのでしょうか。

もちろん悲しくないわけではありませんし、辛くないわけでもありません。

ただただ僕はその現実と向き合うことができず、心の機能をストップさせていたのだと振り返れば思います。

その現実が、フィクションか何かのように感じられ、いつまで経っても彼らの命の灯火が消えてしまった現実を受け入れられず、信じることができなかったのだと思います。

それでも僕は、彼らのことを忘れたことはありません。

彼らと過ごした時間を忘れたことはありません。

 

命は儚く脆い。

たった一発の銃弾でその灯火は消えてしまうぐらいなのですから。

命は儚く脆い。

だから、「尊い」のです。

 

命の重さは弾丸一発の重さと同じなのでしょうか。

いや、その「儚さ」「尊さ」はそんなに軽いものではないはずです。

そのため、命に触れる肉体的な恐怖というものや、破壊衝動を駆り立てるようなものを、娯楽という分野での芸術作品に軽々しく盛り込むというのは、僕の目には「駄作」、むしろ「害作」としか映りません。

その儚さ、尊さを描いたものであれば別のお話ですが。

 

●人は何に恐怖を感じるの? (改)

 

…脱線しすぎてしまいました…。

いつもの悪い癖ですね。(笑)

申し訳ありません…

やはり反省はしていませんが。(笑)

ここまでは「肉体的な恐怖」について述べてきました。

 

今回僕がお話したいのは、「心理的な恐怖」についてです。

 

恐怖に種類なんてねぇだろう!

 

いや、これはあくまで「僕の自論」なのです。(笑)

これも、「いつものやつ」です。

一度BARに飲みに行って、

言ってみたいセリフNo. 1のやつです。

 

「心理的な恐怖」というのは、命の危機に瀕していないにもかかわらず、恐怖心を抱くというものです。

わかりやすく例を出すと、「パブロフの犬」というのも、この心理的な恐怖と結びつく可能性があるのではないかということです。

 

▶パブロフの犬

 

「パブロフの犬」とは、ソ連の生理学者イワン・パブロフ (1849-1936) による、動物の「条件付け」による反射行動を証明した実験のことです。

「条件付け」とは同じ状況を意図的に作り出す、いわば「訓練」のようなものです。

実験内容は諸説ありますが、以下のようなものが通説だと思います。

  1. 犬にベルの音を聞かせる
  2. 犬にエサを見せる
  3. 犬は唾液を分泌する
  4. 犬にエサを与える
  5. ①~④を繰り返す
  6. すると、次第に犬はベルの音を聞いただけで唾液を分泌するようになる

 

「反射」というのは身の危険を回避するために無意識の内に身体が反応することを指しますよね?

これは中学校の理科の復習なのです。(笑)

 

ピュー――ッと音を立てているやかんにたまたま手が触れてしまった瞬間、

「あっっっち!!!」

って無意識に手を引っ込めますよね。

いちいち、

「あっっっついから、はよ手ぇ放そ」

とは考えませんよね。(笑)

これは本来動物が持っている機能なのです。

 

そうではなく、「条件付け」による訓練によってこの反射行動が身に付くというのです。

例えば、僕はこれを受験勉強の際に応用していました。

「ブルーベリーの飴ちゃん」を舐めたら勉強に「集中する」、これを意識的に繰り返して行っていました。

そのため僕はブルーベリーの飴ちゃんを舐めるとやる気に満ち溢れる変態人間なのです。

 

しかし、この「条件付け」。

悪い方に働くこともあります。

 

例えば、すごい剣幕で大声で怒られるという経験を繰り返しされているのだとしたら、大きな音を耳にしただけで怯え、恐怖を感じることでしょう。

そして必ずしもこの条件付けのみによって、心理的な恐怖を感じるというわけではありません。

 

ここからが本当の本題です。

長い間ほんとにお疲れ様でした。

脱線に次ぐ脱線によって、ようやく本題に戻ってきました。

 

人は何に恐怖を感じるのか。

それは己が考えが及ばない「混沌」だと僕は思うのです。

人は自分が理解できないものに対して恐怖を感じる生き物なのです。

 

アメリカ先住民たちは、西洋ヨーロッパからの移民たちによって虐殺されました。

 

言葉が通じない者たち。

異様な姿、立ち振る舞い。

 

理解できないから武力によって服従されたのです。

服従させれば恐怖を感じることもなくなるからです。

そして、自分たちとは見た目も文化も異なる彼らのことを、

英語で「エイリアン (alien) 」と名付け、虐げてきたのです。

 

恐怖心を抱いた者は、それを排除する思考へと向かっていきます。

一旦その思考の方向性が固まってしまうと、それ以外の考え方への配慮が欠落するのです。

そして、同じ方向性の者の言葉には同調し、人は群れを成します。

群れとなった人々は、俯瞰的にこの世界を見ている賢者の助言に耳を傾けることはありません。

「数は力」だからです。

一人の賢者の言葉より、大勢の愚者の言葉の方が社会にとっては正義なのです。

 

猛き者は前へと進みます。

猛き者の勢いは静なる者には止めることはできません。

 

勢いが増すにつれて、次第に当初の恐怖心は目の前の敵への「怒り」へと変わります。

おそらくその者たちは、時が経つにつれ、何に対する怒りなのか忘れてしまうのでしょう。

「先入観」がそうさせるのです。

 

その者たちを止めるものがあるとすれば、

それは「痛み」です。

 

勢いが強ければ強いほど、壁にぶつかったときの衝撃も計り知れないのです。

壁にぶつかり、痛みを感じることで自らの怒りの方向性が誤っていたと気付き、そこで初めてその足を止めるのです。

 

しかし、そうなってしまってからでは遅すぎる。

 

どれだけ後悔しても、失ったものはもう決して戻ることはありません。

「信用」

「友情」

「愛情」

そして、「大切な人」

これまで身を削り過ごしてきた時間も取り戻すことはできません。

 

現代はインターネットが普及し、誰もが情報を得ることができる「情報社会」です。

しかし、それ故の危険性があります。

自身の理解が及ばない「恐怖」があります。

 

何が正しくて、何を信ずればよいのか。

 

それを常に己が信念に問い続け、自らの志を磨き続けなければならないのです。

この世界を常に俯瞰的に見なければなりません。

目の前の情報や利益に飛びついてしまってはいけないのです。

 

人は「勇猛」でなければなりませんが、

「賢者」でもなければなりません。

前に進むだけが「勇猛さ」ではありません。

 

すべての物事を懐疑的に見たり、情報や人を信じたりするな、と言いたいわけでもありません。

そうなると人は行動に移すことに憶してしまいます。

臆病ではいつまで経っても現状は何も変わることはありません。

 

迅速に正しいと思うものを見極め、

正しい「判断」ができる賢者となれ。

 

僕がここでお伝えしたいのはそういうことなのです。

そして今、目の前に形なき「混沌」が迫ってきています。

 

コロナウイルス

 

この数ヶ月で世の中は劇的に変化しました。

見えない敵に人々は「恐怖」を感じているはずです。

正直、僕も怖いです。

それでもその恐怖に僕たちは打ち勝たなければなりません。

そしてそのためには、僕たち自身が強い信念を持ち、強い力を持つ必要があると思うのです。

 

一部の人間によって行われる保身的な政治

自らが正しいと思い込んでいる者同士の争い

 

僕たちは今仲間同士で争っている場合ではありません。

正しいかどうかも定かではない、ネット上に出回っている情報に踊らされている場合でもありません。

一方向から見れば、物事の一面しか見ることはできません。

目の前の敵に勝ちたければ、自らの心を育て、そして力を身に付けなければなりません。

そして目の前の物事としっかり向き合い、観察する「眼」を鍛えなければなりません。

 

長くなりましたが、案外目の前の「恐怖」「混沌」という敵は、よく観察し、回り込んでいろんな角度から見てみれば、もしかしたら薄っぺらい張りぼてのようなものなのかもしれませんよ。


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