メンタルケア

幸福の相対性理論: 幸せに生きる方法

【8,013文字】

ハロー!

midori* (@tm_midori) です! ٩( ᐛ )و

 

【拝啓、みなさま】

緊急事態宣言が発令されて、自粛ムードの中での初めてのGWとなりました。

みなさんはこのGW、いかがお過ごしですか?

僕は元気に豊かなひきこもり生活を過ごしております。

毎日起きたい時間に起きて、食べたいときにご飯を食べたり、運動がてら小学生の頃の通学路なんかを散歩しちゃったりしてます。

学生の頃の地元の友人と遊んだりもしました。

(もちろん3密とソーシャルディスタンスは守っています!)

 

そして眠たくなったら明日の予定も気にすることもなく、

「明日は何をしようかなぁ」

小学生の頃に戻ったように考えながら目を閉じます。

 

やりたいことをして、

会いたい人と出会う。

自分の時間は誰からも管理されることもなく、

自分の好きなように過ごす。

 

僕はずっとこんな日々を待ち望んでおりました。

 

もちろんお金がなければ生きることはできないので、僕も働かなければなりません。

社会に貢献するために、僕の人生の一部を捧げて、やりたくないことにも取り組みます。

上司はそれを「成長するため」と言いますが、僕はあまりそうは思いません。

 

お金は必要ですが、自分の限りある貴重な人生を、やりたくないことに捧げることが成長なのでしょうか。

 

それはもちろんやりたくないことでも、これまで出来なかったことが出来るようになり、それを通して新しい価値観が自分の中に芽生えるかもしれません。

そうすれば僕にも心からそれを「成長」と喜べる日が来るのかもしれません。

 

ですが、「それが当たり前」という社会の風潮に、僕の心は黒く塗りつぶされていきます。

それを強要され、自分の価値観が正しいのかどうか、戸惑ってしまうことがあります。

 

みなさんは日々をどのように生きていますか。

何を感じ、何を考えながら生きていますか。

 

「誰かのため」「社会のため」というのはそれはそれは美しい考え方です。

僕もそれは否定しませんし、僕もそうありたいとは思います。

 

ですが、

僕はまず「自分の人生」を「幸せ」にしたい。

 

僕が幸せになることで、僕に関わる誰かを幸せにできると思っています。

「自己犠牲」の精神で、自分の幸せを顧みず、誰かのために生きることは立派なことですし、なかなかできることではありません。

ですが、「報われない人生だな」と、単純に僕は思います。

 

人は何のために生まれ、なぜ生きるのですか。

 

自分だけの人生を歩むためではないのですか。

自分だけの人生を楽しむためではないのですか。

自分だけの喜びや幸せを少しでも多く感じるためではないのですか。

 

今回は僕なりの幸福論、

「幸福の相対性理論」をお話ししていきます。

 

●「町社会」「村社会」「個人」

 

「村社会」という言葉を聞いたことはあると思います。

村社会というのは、人々が時に協力し合い、時に監視し合う社会のことです。

村は町と比べ、少人数で形成される人の集まりです。

町は人が多く集まる一方、その分、一人一人の生き方はその社会の中にどんどん埋もれていきます。

【町社会】

良く言えば、

「それほど監視されない社会」

悪く言うと、

「人との繋がりを感じにくい社会」

 

村社会は町と比べると小規模で形成される社会です。

もちろん町社会の在り方とは、「逆の社会」ということになります。

【村社会】

良く言えば、

「人との繋がりを感じやすい社会」

悪く言うと、

「お互いの生き方に干渉し合う社会」

 

どちらの社会の在り方が良いのかは、僕にはわかりません。

専門家の人にでも聞いてみてください。ƪ(˘⌣˘)ʃ笑

 

ただ、僕はこれからは「個人」の時代だと思っています。

僕は4年前からそう言い続けています。

 

インターネットが劇的に世界に普及し、このコロナショックでも感じた方も多いとは思いますが、在宅でも人との繋がりを感じることができ、仕事も自宅ですべて完結させることもできます。

 

生き方というのは、その時代の流れに合わせて、

「徐々に変わる」「一気に変わる」かのどちらかです。

今、コロナウィルスという世界規模の苦境に人類は立たされています。

正直、この緊急事態の中、徐々に変わろうという思考の社会では崩壊するでしょう。

 

人も社会も、「変化」を恐れます。

 

生き方を変えるということは、その分リスクを負うということでもあります。

目の前に明るい、ハッピーな世界が広がっていようとも、

おそらく人はまず「警戒」するでしょう。

 

失敗するんじゃないか。

間違っているんじゃないか。

騙されているんじゃないか。

 

そうした疑念も相まって、きっと動けなくなってしまうのが人という理性を持つ生き物なのだと思います。

ギャンブルを毛嫌いする人が多いように、

人は「ハイリターン」は好んでも、

「ハイリスク」は嫌います。

 

行動経済学の中に、「プロスペクト理論」という考え方があります。

【プロスペクト (prospect) =期待、見込み】ですね。

人は何か行動を起こす時、未来を予想してから行動します。

 

その際、

「リターンはどれぐらいか」

「リスクはどれぐらいか」

「そのリターンはそのリスクに見合うものか」

このような思考が働きます。

 

そして、人は「リターン7:リスク3」の割合以上のリターンが見込めなければ、

その選択肢を除外しようとする思考になる人が多いんです。

 

そのため、生き方を変える、社会を変える、という大きな選択の分岐点に立たされると、人は動けなくなってしまいます。

それも人の群れである「社会」であれば、一人一人の価値観も異なるため、社会を変えるかどうかという選択は、それこそ多くの時間が必要になることでしょう。

 

しかし、ここまでにお話ししてきたように、

現代はインターネットが誰でも使える時代です。

 

そのため、社会がどう変わろうと、そもそも個人の生き方を見直せば、人生を豊かなものにすることがきっとできるはずなのです。

 

●歴史から学ぶ現代の生き方

 

「町社会」「村社会」「個人」

 

ここまで様々な形の社会の在り方についてお話ししてきましたが、日本は結局どのような社会なのでしょうか。

 

結論から申し上げます。

町社会の悪いところ、村社会の悪いところが顕著に出てしまっている「闇社会」です。

(注: 意見には個人差があります。笑)

 

歴史を振り返ってみると、中学校で習う日本史の中にも今の日本を象徴するような社会の在り方が出てきます。

 

「座」「惣」「株仲間」「五人組」

 

これらは中学校の社会科の授業で習いましたよね?

 

覚えていますよ、ね…???(グイッ)

 

●復習!٩( ᐛ )و🌟

…鎌倉~室町時代の商業者組合。その土地の貴族や寺社に税を納めることでその町での営業を独占することができた。

…室町時代の農業者組合。農民が村ごとに作った自治組織であり、領主などに年貢の軽減などを団結して要求することもあった。

株仲間…江戸時代の商業者組合。幕府に税金を納める代わりに、その町の営業を独占する権限を与えられた。田沼意次の改革では積極的に採用され、その後の松平定信の寛政の改革では解散させた。

五人組…江戸時代に幕府が年貢の徴収を効果的に行えるように図った農民の組織。一人が脱走などすれば連帯責任として全体に責任が問われるため、お互いに監視し合う社会となった。

 

さあ、「今の日本の社会を象徴する」と言いましたが、どのあたりが象徴的と言えるのでしょうか。

 

「座」「株仲間」は主に商業者組合です。

力のある貴族や寺社、幕府に認めてもらうことで営業を独占できるというのは共通した点です。

しかし、そもそも誰でもこの「座」「株仲間」に入れたのか、それは史実にあやしいと思います。

商業者の中でもこの「座」「株仲間」に入れるのは、

力ある者、もしくは、これらはそもそも力のない者たちの集団ということだと思います。

つまり、この表向きの明るい社会に生きる者たちの陰で、ひっそりとその社会から爪弾きにされた「本当の弱者」がいるということです。

ですが、もちろん幕府や寺社などは、その弱者たちの存在を否定するでしょう。

 

そうでなければ、

その権力者は弱い者いじめをする「悪者」になってしまうのですから。

 

町社会の明るい世の中の陰には、スポットライトの当たらない弱者がいます。

それは今の日本の社会にも言えることなのではないでしょうか。

 

そして、

日本の「村社会」の悪習を代表する「五人組」

もちろん幕府側からすれば、これほど都合の良い社会はないでしょう。

その村でもその形で納得し、むしろ「頑張れる」と思っていた人もいたのかもしれません。

 

ですが、僕ならきっと頑張れません。

 

「五人組」が、お互いに励まし合って、協力し、苦難や喜びを分かち合うような社会なのであれば上手く機能していたのかもしれませんが、

「監視し合う社会」なのであれば、僕はそんな社会の中では生きていくことはできないでしょう。

 

「監視し合う」ということは、

一人一人の人生は無視し、いかに利益をあげるかを試される「社会の歯車」になるということだからです。

 

…戦後間もない頃であれば、それでも頑張れたかもしれません。

どれだけ苦労と我慢を重ねようが、

頑張れば頑張った分だけその報酬をもらえたからです。

 

今はどうですか?

あなたの人生は、その苦労に見合うだけの報酬をもらえていますか?

「頑張って良かった!」と心から言える人生ですか?

 

僕は残念ながら、あまりそうは思えません。

どれだけ頑張っても報われない社会もあるのだと落胆しています。

 

ここで少し、昔話にお付き合いください。

 

僕は学生時代に「努力の天才」と呼ばれていました。

それは中学校でも、高校でも、大学でも変わりませんでした。

勘違いしていただきたくないのでここで申し上げておきますが、

これは「自慢」「努力する才能があった」

そんなことをお伝えしたいわけでは決してありません。

 

僕はどこの社会でも必ず「落ちこぼれ」の烙印を押されていたからです。

 

勉強もできない、部活の成績も悪い

容姿もたいしたことない

 

学校という社会では、この三つの成績、

人からの「評価」でその社会のヒエラルキーの立ち位置が決められてしまいます。

 

具体的に言うと、

僕は勉強では偏差値が30ちょっと、

部活では予選1回戦負け、

容姿も、身長160cmほど、

別に顔も良くありません。

 

それでも最後にはたくさんの人に

「頑張ったね!」

と言ってくれるように実際に成長しましたし、それだけの努力をしてきたと胸を張って言うことができます。

 

これを言うとほぼ確実に、

「努力できる時点で十分すごい」

そんな回答が返ってきます。

 

そうじゃない…!!!

そうじゃないだろ…!!!

 

僕が伝えたいのはそんな承認欲求を満たそうというような、「クソみみっちい」ことなんかではないんです。

 

それでもわかりますよ。

その努力ができない人の気持ちも僕は十分味わってきました。

変わろうとしても変われないもどかしさも痛いほど感じました。

別に僕のこの価値観を押し付けるつもりもありませんし、

僕の人生を語って励まそうなどとも思ってもいません。

 

そんな僕でも、

今、この社会の底辺にいます。

 

「底辺」を語ると「俺の方が底辺だろ!」という

底辺好き好きおじさんが出てくるのであまり多くは語りません。

 

それでも「努力の天才」が、

努力ではどうすることもできないことがこの社会にはあるのだ

そう悟ったんです。

 

これまでの僕のブログを読んでいただいた方にはわかっていただけるかと思いますが、僕のひと記事はとにかく「長い」と思います。

キーワードや、SEO対策なんかは一切考えていません。

誰かに迎合するような、そんな言葉は吐き出したくはないからです。

もしそれをしてしまえば、僕はおそらく文章を書くことを辞めるでしょう。

 

まだ僕はブログ歴3ヶ月足らずですが、他の方のブログを読んでいても「短い」と感じてしまうことがあるので、僕のブログは、おそらく他の方にとってはもっと「苦痛」と思えるほど長い文章を書いてきていると思います。

これが「努力の天才」の力ですよ…

これまでおよそ20万文字ほど想いを綴ってきました。

 

それでも「収益ゼロ」です。

時々何のために書いているのかわからなくなります。

これに関しては「報われたい」なんて微塵も思っていないので、別にこれでいいんですが…

 

しかし、このブログやTwitterでの活動も、

僕なりの、この社会への「反撃の狼煙」なんです。

 

収益ゼロだろうが、読者ゼロだろうが、

フォロワーゼロだろうが、

僕は目先の数字のことはまったく見ていません。

僕はその先の打ち破る「壁」しか見ていません。

 

「変わろう」

「変えてやろう」

「変えてみせよう」

 

本気でそう思ったのは、これが初めてかもしれません。

これまでも十分本気を出してきたつもりですが、

自分の限界値は新たに塗り替えることができるのだと今感じています。

 

「だからお前も努力しろよ」

 

そんな慈悲の欠片もないことは言いません。

 

僕は「僕が生きているこの社会」を、

本気で変えようとしているだけなんです。

 

「町社会」「村社会」の悪い風潮を集めたようなこの闇社会。

 

弱肉強食型

利益追求的

相互監視社会

 

僕がさっき思い付きで命名しました。

僕はこの社会を「ぶっ壊します」。

 

●幸福の相対性理論

 

はい。

また長くなってしまい申し訳ありません。

ここまでで5,000文字を超えています。

まだ「幸福の相対性理論」の「こ」の字も出ていないのに…

 

ここから本論です!(ドンッ)

 

人はどのような時に「幸福」を感じますか?

 

努力が報われたとき?

大切な人と一緒にいるとき?

美味しいご飯を食べているとき?

眠っているとき?

 

様々な形の幸福、一人一人「幸せ」の定義は異なると思います。

 

それはそれで良いんです。

 

では、

人はどのような時に「不幸」を感じますか?

 

努力が実らなかったとき。

大切だと思っていた人に裏切られたとき。

ご飯さえ食べられないとき。

夜、眠れないとき。

 

これらはただ先ほどの「逆」を並べただけです。

 

しかし、不幸を感じがちな人は、

他人と自分を比べていませんか?

 

努力が報われなかったときに絶望感さえ抱いてしまうのは、

自分への自責の念ももちろんあるでしょう。

ご飯さえ食べられず、毎日のお金に苦しんでいる人。

アフターコロナの影響で会社を解雇されてしまったという人も、僕のことをフォローしていただいている方々の中にはいます。

もう何もかもすべてが嫌になり、自分の人生や価値観を「絶望」で満たしきっている人も僕のことをフォローしていただいています。

家庭環境に恵まれなかったというだけで、幸せを感じられない人生を歩んでいる人がいます。

自らその人生を閉ざそうとしている人がいます。

 

ちょっと待ってくださいよ…

少しだけその命、僕に預けてくれませんか…

 

どうせその命断つのなら、

僕に預けていただいても構いませんよね…?

 

人が不幸を感じてしまうとき、もちろん努力や成果が実らなかった時や失敗をしてしまったときにも感じることでしょう。

それはそれでいいのです。

失敗や挫折から学べることの方が人生は多いのですから。

 

ただね、これだけはしてはいけません。

ほんの少しでも思ってはいけません。

 

「どうしてあいつは…」

「みんなはこうなのに…」

 

これは自分の幸福や不幸を人と比べ、その社会の中で周りと比べることで、

相対的に「自分の位置」を確認している考え方です。

しかし、それでは

絶対に幸せにはなれません。

 

2002年 (平成14年度) から、

学校では「絶対評価」という形で成績を付けられるようになりました。

 

それまでの「相対評価」では、

必ず全員に「1~5」の成績を、クラスの中で相対的に付けなければならなかったため、

極端な話、全員がテストで100点をとったとしても、誰かは「1」を付けられてしまうんです。

 

それではあまりに報われない学生が増えてしまうため、「絶対評価」という形に変わりました。

もちろん、この絶対評価がそれまでに採用されなかったのにも理由があります。

 

「絶対王政」のように、

一人の大人の価値観で全員の評価を付けることができるからです。

 

一人の価値観の「ものさし」で、自分が測られるというのはなかなかにシビアな社会ですよね、学校って。

 

でも、その「絶対評価」を自分の価値観にあてはめてみてください。

 

「あいつより劣っている」

「昨日の自分より優っている」

 

そんな風には考えられませんか?

誰かと比べ、「自分の位置」を確認するというのも時には必要です。

そうしないと自分の走っているペースが正しいかどうかわからないからです。

 

しかし、ずっとその「自分の位置」ばかり気にしていると、絶対に幸せにはなれません。

 

そして、その「幸せの相対性理論」を持った人の中には、それを「正義」と考え、周りまでその価値観で巻き込もうとする人がいます。

 

人生は時に「山登り」に比喩されます。

辛い経験も乗り越え、山頂から見る朝日はさぞかし絶景でしょう。

それも同じ価値観をリュックに詰めた仲間と一緒に協力して登った山なのであれば、なおさら幸福を感じることができると思います。

 

しかし、自分が苦しんでいるとき、隣で涼しい顔をしてひょいひょい山を登っていく親しい友がいたらどうですか?

 

自分の所まで、

引きずり落としたくなるでしょう?

 

仲間に引っ張ってもらい、自分がその仲間に追いつこうとするのなら全然構いませんが、自分は既に限界を感じ、一歩も前に進めない苦しい状態で、そこから「頑張ろっ」という意識にはなかなかなれないと思います。

そのため、仲間を自分の所まで落とした方が「楽」なんです。

 

この考え、価値観で誰が幸せになれますか?

 

少なくとも、周りを引きずり込んではいけません。

苦しんでいる人に、救いの手を差し伸べることは大切ですし、その気持ちは絶対に人として忘れてしまってはいけませんが、「無理矢理引っ張る」のは良くありません。

痛い痛いなのです。

 

例えば自分が救いの手を差し伸べた相手が、今度は自分より先に山を登ろうとしていたらどうですか?

「それ以上行かないで」って思いません?

 

みんながみんな、幸せに人生を歩みたいのであれば、自分のペースで山を登るべきだとは思いませんか?

 

時に協力し合うことももちろん大切なことですが、

「あ、こんちはっす」

「疲れましたね。顔が辛そうじゃないですか」

「一緒に休みましょう」

「それではお先に…」

このような人との繋がりなら誰も傷つかなくてよいと僕は思うんです。

 

しかし、多くの人は、

自分の価値観の「ものさし」で他人を測ろうとします。

他人との距離を測ることで「自分の位置」を決めようとします。

 

そうじゃない…!

そうじゃなくって…!!

俺を見ろよ…!!!

こうやって俺も必死に生きようとしてるんだよ…!!!

 

自分の価値観の「ものさし」で測るべきものは「自分自身」のはずです。

他人との距離を測るのは、

どうすればもっと自分が幸せになれるのかを知るためのはずです。

 

自分の価値観で自分自身の幸せの大きさを感じ、

周りを見渡すことでそれをさらに大きくするための術を知る。

 

やれやれ、また長くなってしまいました。

ここまでを一言でまとめます。(え…?)

幸も不幸も、周りの人たちと比べるのは辞めて、

自分の「ものさし」で測ってみませんか?

 


【今回のmidori*オススメ記事! ٩( ᐛ )و】

「人はなぜ生きるのか」

→ なぜ人は生きるのか。僕なりの考えを綴りました。人は生きなければいけないわけではないんです。だいぶ初期の頃の文章だから、まだまだ筆足らずだなぁ…。

「米が尽きた話」

→ 最近あった僕の「幸せ」の話。読者の中では、今のところ最も良い反応をいただいている隠れた名作です。カテゴリーは僕の考えとかじゃなく、「日記」なんですがね…( ;∀;)笑

「繋がりを断つ勇気: 自分の人生の歩み方」

→ 自分の価値観の「ものさし」で自分の幸せを感じるために、人との繋がりを断ちましょう。とても勇気のいる行動ですが、なぁに、どうってことありませんよ。

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